はなのかんむり~『御堂関白記』より
- 物販商品(自宅から発送)あんしんBOOTHパックで配送予定¥ 1,105
■内容: ジャンル:歴史創作、恋愛、考察資料 (1)小説 藤原道長×源明子(明子女王) まだ伯父も兄も健在で、藤原兼家の末っ子として気楽に生きてた頃の道長が、失脚した左大臣・源高明(醍醐天皇の第十皇子)の娘に恋する話です。 政治的に期待できない立場だった道長も、その後の情勢の変動によって、他に妻を娶り政治の中枢に出ていきますが…。 (2)考察資料 小説を書く上で調べた資料のまとめです。 ①この二人は恋愛結婚だったのか?(恋愛結婚といえるのか?) ②道長の最初の妻は明子の方ではないか? という2点が一番のポイントです。 ■仕様 サイズ:A5 ページ数:200P(表紙込み) 表紙:モノクロ、PP ■発送 あんしんBOOTHパック利用(ネコポス) 匿名配送 ※段ボール補強+ビニールで梱包し、茶封筒で届きます。
はじまりのおわり
此度は病が重いらしい。 市井の者どもまで残らず、栄華を極めた男が終わるときを噂している。入道になって以後も明瞭な影響力を持っていた彼が、ついにこの世を去るのだ。 ある者にとっては、それは長年の閊えが消え失せる僥倖だ。別の者にとっては、期待していたことのような、寂しいような評しがたい感情。また、ほかの者にとっては埋めようのない大きな欠落だった。 家族にとっては、種類はあれど悲しみに違いない。なかでも、彼女は彼の不在が耐えられない痛みになることはわかりきっていた。 本当なら決して離れずに彼の息遣いを聞いていたい。が、彼女にはそれは許されていない。四十年もの歳月によって、彼女と彼とはそう隔てられてしまった。 病に斃れても看ることすらできない自分を、妻と呼べるのだろうか。そんな自嘲などは後でいくらでもできるだろう……、どうせ嫌になるほど長い空虚が彼女を待ち受けているのだから。 彼の看病をしていた、もうひとりの妻が休息のためにその場を離れる。報せを受けて、入れ替わりに彼女は彼が創建した広大かつ壮麗な寺院の北端に向かった。 不在は彼女への配慮と思いやりだ。愛情ともいえるかもしれない。その温かい心に感謝しようと考えるのに、今更。今このときになって、妻として競う心が生じてくる。その場所には、私こそがいたかったのに、と。 妬心なんて。 もうとっくになくなったと思っていた。忘れていた。 いいえ、ずっと私は彼の女だったのだ。当たり前すぎて意識しなかっただけで。 予定が少し遅れてしまい、去り際、その人は目立たないように参入してきた彼女の姿をちらりと垣間見てしまった。当然ながら知らぬ仲ではない。視界の隅で捕らえて、綺麗な方、と呟いた。 人目を避けつつも小走りに彼の許へ急ぐ。自分と年はそれほど変わらない。尼僧姿であるのも同じ。 「かの方は、今でもあれほどに匂うようだわ」 夫が愛でた、焦がれた花。 ふっと微笑して、妻は静かに下がった。この場はふたりにしてあげよう。儚い逢瀬のため。 急な病で僧形になって八年ほど。その姿には慣れたけれども、やつれた彼を見ると、やはり彼女の瞳は潤んでしまう。昔から朗らかで、陽の光のような人だったのに。 彼女は枕元に控え、眠っている彼を見つめた。衣から伸びる手の甲は痩せている。辛いのだろう。苦しいだろうと、その手をさすっていると、ふっと彼が瞼を開けた。 「明子」 一瞬輝いた目は、少将だった頃のよう。子どものように素直に彼女を見つけて喜んだ。 「はい」 彼女も微笑む。来たのか、と起き上がろうとするので、彼を助け起こそうとして背中に手を回し、病魔の爪先を察知して思いとどまった。掠る程度でも酷く痛むだろう。 「ご無理をなさいませんよう……。お身体に障ります」 では、向きを変えるだけにしよう、と言って、彼は彼女に膝枕をさせた。 「ありがたいお堂で罪深いお方ですこと」 彼女は優しく額の汗を布で拭う。彼はその手を取って、頬に寄せた。往時の力強さは消えている。 「なに、観音の代理だ。これも君の功徳になるだろうよ」 まあ、畏れ多い、と彼女は涙をごまかして笑った。 病身だというのに、不自然なほど小ざっぱりしている。汗の臭いもない。明子のために、片付けて身支度をさせたのだろう。衰えた姿は見せたくないというので。 そういう方だもの。 彼女を守ると誓った強い男君のままでいよう、と。 この訪問によって無理をさせているのでは、と彼女の胸は痛む。生きてあれば、彼女にとってはどんな形でも安堵になるというのに、男と女の間にはどんなに時間が流れても繋ぎようのない断絶が横たわっている。 「姫宮が、お爺さまにこれを、と」 彼女は気を取り直して、袖から造花の枝を一本取り出す。亡き娘・寛子が生んだ孫・儇子内親王が手づから作ったものだった。忘れ形見の姫は新年で九歳になる。日に日に夭折した娘の面影を宿すようになっていた。 「お優しいことだ……」 腕を上げて受け取るのはつらそうだ。彼女は彼の掌に枝を忍び込ませて、それはどうでしょうか、と寂しさを笑顔で覆い隠す。 「宮は弥生になったら、また桜を所望される心づもりなのですよ。これは、その催促です」 少女は、祖父が連れて行ってくれる花見をとても楽しみにしている。それまでにお元気になって、と願いを込めて一生懸命小さい手で作っていた。器用ではあっても幼女のすること。ところどころ不恰好な作りは、老人の脳裏に少女の一途な眼差しを浮かべさせた。 これは怖いな、と彼も力なく笑う。 「なんと、可愛らしいが、賂だったか」 「私も、楽しみにしておりますもの。桜の少将さま」 彼は目を細めて、彼女を見つめた。 「随分と、抹香臭い近衛がいたものだ……」 ふう、とため息をついて彼は頷く。 「次の春も、ともに花を愛でよう。その次も」 約束ですものね、と彼女は囁く。 「ああ……」 私はこれまでも、約束は守ってきた……。 「ええ」 彼女は、自らに言い聞かせるような呟きを掬い取って返事をする。 ぼんやりとした視界に彼女がいる。涙を見せないよう、悲しみを伝えぬよう微笑みを絶やさない。優しい女だ。 私の佐保姫。 いや、咲耶姫の方が合っているだろうか、と彼は思い返す。どうしても手離したくなくて。妾でもない、召人でもない、妻として置きたくて無理を通し続けた。 その歳月、私は誠実な恋人で良い夫だったはずだ。彼女の望む形とは違ったかもしれないけれども、できることを可能な限り、いや、そうする、という強い意思でやり遂げてきた。古い約束のままに彼女を守り抜いた。 ほんの幼い頃から政に翻弄された身の上だったからこそ、無用に権勢を求めることのない女だった。彼女が欲したのは、ひとりの人間として愛されること。 ―― 恋人を妻とするのは愚か者の所業だ。 いつだったか聞いた言葉。貴族に生まれた男たちならば、骨身に叩き込まれている現実だ。 ならば、私は天下一の愚か者なのだろう、と彼は自嘲する。彼だとて、他人のことならばそう言って止めることだろう。実際、つい数ヶ月前に末の息子を同じように押し留めた。「男の立身は妻がらで決まるもの」、それは頂点に立つまでの段階で彼が得た実感であり、教訓であり、動かしようのない事実だったから。 ―― 父上だけには言われたくありません! やんちゃで甘え上手、家族みんなに愛されている末息子は、父が驚愕するほど頑強に縁談を拒絶し通した。 ならば、何故、高松の母を妻としたのです。 愛した女に良く似た目で、そう責められると、もう彼は何も言えなかった。あの子はまだわかっていない。恋を貫くにはそれなりの覚悟と犠牲が必要だ。それがどういうことなのか、恵まれて育った青年は知らないでいる。 だが……。 彼に、息子を教え諭す時間は残されていなさそうだった。心残りではあるけれど、人は万能ではない。すでに彼は多くを手にし、ほとんどを思うままに収めてきた。 真面目な長男は豪胆ではないがゆえに慎重に物事を進め、世間を騒がせることはないだろう。華やかな次男は推し量りにくいところもあるけれども、不思議なことに亡くなった姉に似ている。間違いは犯さないだろう。頑固なところは誰に似たのか、四男は危うい面があるものの、非常に実務能力に長けている。彼が文官たちに信頼を得ていることはわかっている。浮ついた性格で心配させられた五男は正妻を失って、彼なりに思うことがあったようだ。近頃顔つきに変化があるという。娘たちもみな結婚した。母親そっくりに育った長女は、きっと妹たちをよく後見してくれるだろう。一体、どんな前世があってあのようによくできた娘が生まれたものなのか……。 忙しい身の彼は常に子どもたちの側にいられたわけではないのだけれども、それでも幼い頃からの彼らの姿が幾つも浮かんできた。次いで、先にこの世を去った四人の子どもたちも思い起こす。来世で、またあの子たちに出会うことはあるのだろうか……。 気が遠くなりかけ、彼はまた現世に戻ってきた。 美しい女がいる。 美しい女だ、と彼は思った。 彼女はいつまでたっても、変わらずに美しい。それはずっと彼女に恋をしているからだ。 ただ一度の、ただひとつの恋。 それを手にするために、どれほどの努力が必要だったことか……。はじまりは、あの春の日……。 彼は、すうと寝息を立て始めた。 彼女は静かに夫を見守る。もっと一緒にいたいと思う。ずっと、ずっと……。代わってあげられたらいいのに。この苦しみから自由にしてあげたい。 彼女もかつて母を見送り、我が子もふたり失った。彼が解放されるには、その肉体を離れる以外ないだろうと察している。 私を、残していかないで。 こみ上げる想いをぐっと飲み込む。それは叶わないことだ。切望しようと得られぬ願いだ。 二日ほど彼の傍らにいて、彼女は来たときと同じように密やかに寺院を出る。境内に木枯らしが吹いていた。 もう一月もすれば新しい年になる。騒がしくも晴れがましい正月の行事が終われば梅が花開く。その次の桃が過ぎれば、また桜になるだろう。 どうか、せめて。それまでは。 彼女は天に願った。 しばらくして、娘の忘れ形見と暮らす彼女の許に朝早く訃報がもたらされる。喪に入る彼の息子たちに伝えるため、使いは彼女の返事を待たずに辞した。 彼女を気遣う同じく尼姿の乳母子に、鈍いろの喪服を用意するよう命じると、彼女は孫たちに伝えるためにすっと腰をあげた。くらり、と眩暈がする。支えようとする乳母子を制して彼女は空を仰いだ。涙は流れない。 「やっと……。終わったの……」 四十年も昔。桜と鶯とが結んだ恋が。 嘘つき。本当に残酷な人。彼女が愛した、たったひとりのひと。彼は彼女を置いていなくなってしまった。 彼女からも、すうと魂が抜けていくようだ。悲しみなのか、安らぎか。 穏やかに彼女は微笑んでいた……。
一 さくらはなえだ
鮮やかに染め抜かれた緑いろの細長い布を靡かせて、鶯がひらりと飛んでくる。南の階で休んでいた彼は、つ、と顔を上げた。抱えていた花枝が揺れ、ふわと香りが流れる。それに誘われたのだろうか、鶯はその枝先にとまって羽を休めた。 東面から回り込むようにして、すぐに女童がやってくる。枝にいる黄緑いろの小鳥に目を留め、ほっと安心した表情を作った。大方、主の鳥を逃がしてしまったのだろう。急いで駆け寄ろうとするので、彼は、しっと唇に指を当て、そのまま鶯の足から垂れ下がった布を巻き取る。鳥は驚き翼を広げて逃げようとするけれども、片足から伸びる布が枝と彼の指とに絡め取られてしまい、逃亡は叶わなかった。 少女は、よかった、と胸をなでおろし、「ありがとうございます、兵衛佐さま」と頭を深々と下げた。兵衛府からの帰りなのだから言葉の通りとはいえ、見知らぬ子どもの礼に彼は首を傾げた。まあ、いい、と捕まえた鶯を渡そうとしたけれども、枝に布が絡んでしまい上手に解けない。 「そのままお上がりください。小鳥がいなくなったら、私が乳母の伊勢どのに怒られます」 少女は慌てて彼を押し留めた。周囲を気にするおどおどした様子は、屋敷にまだ慣れていないことを想像させた。「それに、姫さまからお聞きしていますもの」と、にっこり笑う。 ああ、これは間違えられたな、と彼は合点した。意味ありげに桜を抱えて軒先で佇んではいたものの、彼はただ同輩の用が終わるのを待っていたに過ぎないのだ。しかし、敢えての否定はせずに少女に案内させ、東の階から簀子に上がっていく。どうせ、その辺りで女房の誰かに見咎められるだろうと思ったのに人気を感じないまま、まんまと廂に足を踏み入れてしまった。 主に知らせてくる、と母屋の奥に少女が消えるのを見送って、彼は花の枝を抱えたまま、ひょいと腰を下ろす。 気まぐれは、好奇心ゆえだ。 邸宅の主は、いまは亡き醍醐帝の第十八皇子、盛明親王。この世間から忘れられた古宮と、彼自身にさしたる縁はない。親族なのはさきほどまで一緒だった友人・俊賢の方だ。親王宅の後に控えている用事の行き先が、たまたま彼の目的地の隣りだというので、ならばもののついでに、と同行したまでのことである。 そもそもの事の次第はこうだ。 その日の朝のこと。彼が兵衛府に出向くと、同じ佐に任じられている者が大量の桜の枝を持参して来た。その男が言うには乳母の実家である桜の名勝から明け方送られてきたものだそうで、せっかくだから彼の姉君に差し上げたいとのことだった。献上品というほどの品ではなく、里住まいが長くなった姉君の慰めになればと言う。表向きをどう取り繕おうと相手の算段はわかっている。彼は鷹揚に笑って、ごく内輪の土産として受け取ることにした。 それにしても、数が多すぎる。大げさな話にならぬよう、その場に同席した者たちにもいくらか分けることになった。兵衛佐といえば若い男が多い。新婚の妻に、あるいは意中の女官に贈るという者たちのなかで、ひとり俊賢は、体調を崩しがちな叔父の宮に差し上げると言う。なんて生真面目なことを言うのか。いや、口はそうでも本当はどこかに隠した女にでもやるのでは、と内心疑ってかかった彼は、何かと理由をこじつけて無理に付いてきた。叔父というのが盛明親王であり、俊賢は親王の亡き兄・源高明の嫡子なのだった。 佐に任じられているとはいえ、ふたりの年齢は七歳ほど離れている。二十歳そこそこの彼とでは、ふつうなら見間違えようもないのだけれど、新参者の女童はおそらく家主の甥が兵衛佐ということしか知らされていなかったのだろう。あるいは桜の枝に邪魔されて、顔をちゃんと見ていなかったのかもしれない。 それにしても、人がいないな。 別れるとき、俊賢はまっすぐ寝殿に向かって行ったので、宮はそちらにいるのだろう。彼が以前漏れ聞いたところによると東の対も無人ではない。予想通りなら、もっと厳重に女房たちが配されていてもよいのだが、と彼は首を傾げた。 衣擦れの音がした。小さく、几帳はよい、と女童に命じる声がする。しゅっと衣を捌いて彼女は奥から廂へと近づき、御簾のごく間近に居所を定めた。その動作からはすぐにでも話しかけそうな雰囲気が感じられたのに、彼女は、戸惑うように沈黙を守る。しばらく考え込んで、それから「かまち」と少女を呼んだ。 彼女は、少女に何事かを耳打ちする。緊張しつつも慎重に、かまちは言いつけを復唱した。 「あい。私は新しい竹の籠を、伊勢どのが来られたら新しい水甕を姫さまにお運びするよう、言伝を」 ぱたぱたと慌しく、女童は彼らの許から去っていく。静かに移動することも、まだ身についていないのだろう。それとも姫君に直接お願いをされて、心がいっぱいになってしまっているのか。 彼女は、ふう、とため息をつき、「ところで」と鈴の音のように可憐な声で彼に問いかけた。 「貴方はどちらさまでございましょう。こちらの手違いではございますが、お互い恥ずかしい噂になる前に、静かにお引取りいただければと存じます」 私は、と言いかけて、彼はうわずりそうになる喉を鳴らしてごまかした。未だ妻を持たない身ではあるけれど、女には慣れている。何をうろたえているのやら。 「異なことを。私はそなたの兄ですよ」 まあ、と彼女は呆れる。 「兄上とは薫香が違っておいでですわ。乳母を呼んでもよかったのですが、それではかまちが罰せられます。あの子はまだ仕えに出て二日ほど。あまりに可哀想です」 だって、伊勢はひどくあの子を叱るのですもの、と心を痛めた様子で、彼女は呟いた。なるほど、と彼も頷く。乳母が怖いのはいずこも同じということか。見つかったら自分も決まりの悪いことになりそうだ。 「それは一理ありますね。では、私は鶯の使いということで……。ただ、ひとつ問題があります」 彼は、御簾ににじり寄った。 「あの女童が逃がしてしまった鶯……。今は私がこの手で捕らえております。この小鳥をお渡ししなければ、やはりあの子は叱られるのではありますまいか」 ああ、と彼女は今更のように驚いた。未熟な女童が見知らぬ男を連れてきたせいで、そもそもの起こりを忘れてしまっていたのだ。彼女は、「まあ……。どうしましょう。誰かを呼んで……。いえ、それではやっぱり」とおろおろと取り乱し始めた。落ち着いているように思えても、やっぱり彼女は深窓の令嬢なのだ。幼いかまちを庇おうと、勇気を振り絞って彼に話しかけたに違いない。 そうなると、彼には悪戯心が芽生えた。この可愛らしい女を、もう少し身近に感じてみたかった。 「不躾とは存じますが、この御簾を少し上げてはくださいませんか。鳥の足につけた布は私が手にしております。隙間からそれをお渡ししましょう」 でも、と彼女は迷った。初めて会った男を、そこまで近づかせてよいものか。乳母がいたら、男手を集めて叩き出すところだろう。 「さあ、早く」 彼は彼女を急き立てる。 「わ、わかりました」 意を決して、彼女は承諾した。垂れ下がった御簾の下に、すっと美しい桜いろの衣が差し込まれた。子猫なら通れるだろうかというほどの空間ができる。 「それではあまりにも低すぎます。もう少し」 言われるがまま、彼女はもう片方の手も添えて隙間を広くした。するりと上の衣が降りて、重ねた衣のもっとも奥の一枚が露わになる。細い手首が透けて見えるようだ。彼は小鳥を結わえた布の端をその傍らに導く……。 彼女が見覚えのある布に気付いた次の瞬間、彼は女の袖を掴んで、ぐっと自分の方に引き寄せていた。 「あっ」 間髪入れずに後生大事に持っていた桜の枝を放り出し、御簾を高く持ち上げて自分の膝元に彼女の身体を引き摺りだす。 薄きから濃きへ。調和の取れた桜襲の五衣が広がった。まるで、花吹雪のなかに迷い込んだかのような繚乱。控えめで上品な薫物の匂いが、彼の鼻をくすぐる。 濡れた烏羽のいろをした豊かな髪は、彼女の肩から袖へとするりと艶やかに零れ流れた。 姫君は、驚愕の表情で裏切り者をはっと見上げた。が、すぐに顔を伏せ、「なんて……、酷い」とか細く嘆く。 もし、花というものを知らなかったら、最初の一輪を手にした男は、こんな風に感じるのだろうか。