槿花一日~『枕草子』より
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■内容: ジャンル:歴史創作、恋愛、考察資料 平安中期一嫌われた男・藤原斉信…彼は本当にただの「いやなやつ」だったのか? あれほど政界への意欲を出していながら妻の影はひとりきり。どんな男だったのか? を考えた本です。 (1)小説 藤原斉信×妻 雅な気配の漂う大きな屋敷で育った斉信は、父が戯れに手折った遠い血筋の娘に心を囚われる。仮初であっても父の女に手を出すのは褒められたことではない。ましてや少年であれば…。 しかし、彼は「諦める」ことを放棄した。 皇女を祖母に持ちながらもゆっくりと斜陽に向かっていく藤原為光の一族。その中に生まれた斉信はほかの誰よりも多くを求め、失うまいとあがいた男だった。 (2)考察資料 小説を書く上で調べた資料のまとめです。 ①藤原斉信の政治的な動きは実際どうだったのか。 ②藤原斉信の妻を探して。 という2点が一番のポイントです。 『枕草子』を読み込んだのですが、「いや、清少納言すげえな」ってなりました。 ■仕様 サイズ:A5 ページ数:166P(表紙込み) 表紙:モノクロ、PP 装丁:宮美 ■発送 あんしんBOOTHパック利用(ネコポス) 匿名配送 ※段ボール補強+ビニールで梱包し、茶封筒で届きます。
一 泰山は要せず
陽の光を浴びたら萎れてしまう淡い花のように、彼女は儚げな風情をした佳人だった。その彼女が、家人の誰もが寝静まった夜更けに細い身体を震わせ、ひとり静かに泣いているのを見たとき、少年は、この人を守れるのは自分だけだ、と信じた。可憐な花は手折られるものとはいえ、彼らを育む優しい腕を奪い取ろうとしする男が、まだ、血を受け継いだ父とは知らぬながらも。 彼は、母の顔をよく覚えていない。物心つくかどうかという年ごろに、産褥で亡くなってしまったからだ。命と引き換えに母が産んだ子は、弟だった。父・為光が言うには、両親は深く愛し合っており、その死は耐え難い悲しみだったのだそうだ。母の供養のために、末弟は七歳になったらお山に上げるのだという。山といっても京から微かに見える船岡山ではない。比叡山という、とても険しい場所だという。そうしたら、このふにゃふにゃして、よく泣く小さい生き物とはもう会えないのだろうか、と漠然とした物足りなさを感じるものの、辛いと思うほど彼は大人でもない。兄弟はいずれもよく似ていたので、父は兄を松雄、彼を小松雄と呼び、末弟を若松と名づけていたのだけれど、どうせお山に行くのだからと、ふたりの兄が「おやま」「やまこそ」と言い続けるので、そのうちそれで定着してしまった。 そんな父の決定を、乳母たちはよく思っていない。彼の母は、この世にふたりの娘と三人の息子を残したが、父の子は何も彼ら五人に限らなかったのである。妻の喪が明けると、父はさっそく後添いを迎えた。この新たな父の妻は性根が優しいようで、しばしば前妻の子たちを気にして様子を尋ねてきている。しかし、前妻の親族と、後妻の親族は緩やかに敵対する関係にあり、乳母や家女房たちは、亡き女主人の子どもたちから父親を奪った新しい妻を決して許さなかったのである。 実のところ、幼すぎて小松雄には難しい駆け引きは理解できない。それでも、父が後妻の住む邸宅に足繁く通う理由が、結婚直後に相次いで生まれた異母弟妹のせいでもあると何となくは察している。母のいないことを淋しいと思うのは、そんなときだ。 ぼんやりとした面影を求めて、彼は母の残した手蹟を広げることがあった。母は書が巧みで、絵も上手に描けた。指先で母の筆跡を辿っていると、いつのまにか兄もやってきて、直接手ほどきを受けたというお手前を披露してくれるのだった。 「筆先を紙につける前に、深く息を吐いて、神様の前にいる気持ちになるんだよ」 三歳上の兄は、かろうじて母の教育を受けている。技術的なことは覚束ず、ただ心構えじみた文言を教えられた程度だったけれど、小松雄には母が身近になる唯一の瞬間だった。事実としては、兄が学んでいるのは父が雇い入れた文章生出身の秀才学者で、書も、漢籍も、和歌も、知識はそちらから仕入れている。小松雄も真似事として一緒に机を並べることもあるので、当然、そのことはわかっていた。だが、「母上が」と兄が言えば、彼にとって、それは至上の正義となるのだった。漢字だらけの難しい書籍をすらすらと読み、ときにはその講釈もしてくれ、十に満たないのに流麗な仮名文字を書き表す松雄は、彼にとって自慢の兄だ。 もっとも、書については彼自身の才能でもあったらしい。気まぐれに顔を出す母方の伯父で能書として高名な佐理が、甥の字に太鼓判を押した。ただ、この伯父は大変に調子がよく、特に酔っているとそれが甚だしい。大仰な褒め言葉を聞くと、松雄は照れ隠し半分に「酔ってる?」と質問するので、小松雄も伯父を見る度に「伯父上酔ってる?」と真似するようになり、さすがに甥たちの前では酒を控えることが多くなった。 彼らの生活が大きく変わったのは、翌年のことだった。兄が元服を迎え、大人の仲間入りをすることになった。まだ、十二歳の少年であり、世間の通例よりも若干早い。乳母たちは「早すぎる」と心を痛めたり、髪を上げた姿を「立派におなりで」と喜んだりと忙しい。どっちなのだろう、と弟は思った。しかし、小松雄にとって、それはさほどの事件でもなかった。兄を元服させた父は、長男はこのまま中御門にある邸宅に住まわせ、そのほかの子どもたちは、新居である一条の邸宅に移すと宣言したのだった。 住まいといっても、父の持ち物ではない。後妻一族の所有する邸宅である。彼からすれば、数年以内には続けざまに十代になる娘たちを、目の届くところで教育したかったからでもあるし、新妻と数年暮らして、前妻の子をきちんと育てくれるだろうという確信が得られたからでもある。彼はこの正月に中納言に任じられており、近いうちにも大納言になることは、まず間違いなかった。とすれば、次に考えることは娘たちの縁談である。時の権力者である兄・兼通の前では一切口にすることはなかったが、あわよくば娘を入内させて、次なる東宮には我が孫を……、とは、彼以外のどの公卿も夢見るところだった。それには、娘たちを、賢く、美しく、女らしく、さらに得がたい最高の姫君として成長させねばならない。母親役の責任は重大だった。 とはいえ、そんなことは大人たちの事情である。兄と引き離される小松雄には承服できるものではないし、二手に分断された乳母と女房たちも憤懣やるかたない空気を隠そうとしない。かといって、為光を翻意させる手段があろうわけもなく、彼らは命じられたとおり、猛暑を避けた初秋、一条大路沿いの一郭に棲家を移した。 秋とはいっても、まだ紅葉も始まっておらず、名残の暑さが漂っている。小松雄たちが通されたのは西の対で、さらなる西には大内裏があるためか、風が抜けない。ぬるい空気がゆっくりと通過している。中御門第を離れるとき、兄は随分と弟たちを心配していた。きょうだいたちを守れるのは自分しかいない、と小松雄は緊張しつつ、周囲を窺った。そろそろ継子虐めも、噂話としてなら耳にする年齢である。広々とした西の対には、中御門から連れてきた僅かな女房たちのみ。御簾の向こうから一条の家の者がときおり不足はないかと声をかけてくるけれども、そのくらいで、人の気配は少なかった。どうやら彼らをそっとしてくれているらしい。 やがて日が翳ってくると、透渡殿を通る数人分の衣擦れがさやさやと耳に届いた。妻戸を押しあけて、しゅっと入ってくる音がする。うとうとしかけていた小松雄は、父かと一瞬期待したけれど、それは袿の長い裾が立てていた。すわ継母かと身を硬くしたとき、「いらっしゃいな」と予想よりも稚い声がした。 目の前に月の光のように色白で、ほっそりとした少女がいた。切れ長の瞳は、おっとりして優しげである。 「私は、こちらの北の方の妹……。七君とお呼びくださいね。……はじめまして」 涼しい声色だった。彼女は腰を下ろして目線を彼に合わせ、じっと彼の反応を待つ。 いい香りがした。 中御門の女房たちが身につけている、いかにも気合を入れた調合ではなく、爽やかで残る暑気を払ってくれるような、そんな香りだった。 天女のような人だ。 彼は目を丸くして、彼女を見つめた。 すらりとした肢体を夏の装束に包み、物憂げな気配を漂わせている。兄よりも少し年上だろうか。そうは変わらない年齢だろうに、彼女は浮世離れした雰囲気を身につけて、ひどく大人びていた。 彼は、貴婦人といわれるような女性を、これまで間近にしたことがなかった。母も亡くし、生まれる前に祖父母も失い、生き残っている叔母も、生まれてすぐに会った程度で記憶がない。 こういう人が姫君なんだ……。 呆然としている彼に微笑みかけ、彼女は「貴方が小松雄君?」と囁く。それでようやく我を取り戻して、彼はこくんと頷いた。 「小さなお子たちは眠っているのね……。では起こさないでおきましょうね」 彼女は彼の周りで眠りこける幼子たちをちらりと見やり、彼の手を取る。さきほどまで起きていた姉も、ひどくぐずった妹の世話をして、すっかり疲れてしまったようだった。 「私も、このお屋敷には来たばかりなの……。でも、ご案内くらいは致しましょうね」